ナラティブとは?ゲームの面白さの鍵となるか?ドラクエ ロトシリーズに学べ!
投稿日:2021年5月1日 更新日:
今回、このブログではあえてこの言葉をさけてきましたが、ゲーム研究所を名乗っている以上そろそろ触れておこうと思います。その言葉とは…
正直ナラティブ、ナラティブゲームと言われる概念があることを知ったのは7年ぐらい前ですかね。
某掲示板でゲームの面白さ、ドラクエ1の素晴らしさ、デモンズソウルの素晴らしさ、クエスト制RPGの問題点なんかを話ている中で「おまえが言ってることってナラティブなんじゃね?」って言われて、知らなかったのでちょっと調べて知ったのがきっかけでした。
ナラティブという言葉、概念の定義は曖昧な所があり、考えた人が何を言いたいのか、自分が正しく理解してるか、その人が言ってることは正しいのかわかりませんが、「だいたい自分がゲームにとって一番大事と思ってることと同じこと言ってるじゃん!」って感想でした。
ナラティブなんて言葉、概念作って偉そうに発表してるみたいだけど、自分からしてみれば、
このブログで何度か言ってきましたが、ドラクエ1ではじめて本格的なRPGをプレイし、あの時の衝撃的な面白さは今でも忘れないし、あの時の体験がゲームについて考えるようになったきっかけになったわけで、
ドラクエ1,2,3(ロトシリーズ)にはゲーム面白さの根本がつまっており、今で言う「ナラティブゲーム」だから面白かったんですね。
以前「最近のゲームがつまらない理由→不自由と自由がゲームをつまらなくする」という記事を書きましたが、当ブログではけっこう読まれる記事になっており、その続編というかさらに深堀りしたような内容になっております。
ナラティブとは何か?
ゲームの面白さを語る上で、まずナラティブというものを理解していきます。
ナラティブを直訳すると「物語」であり、文芸理論の用語。1960年代「ストーリー」とは異なるフランスの文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着したと言われています。
ストーリーは受動型、ナラティブは体験型。
ストーリーは受動的、ナラティブは主体的。
ストーリーは出来上がったもの、ナラティブは作っていくもの。
ストーリーは一方向、ナラティブは双方向。
ストーリーは自分は含まない、ナラティブは自分も含む。
ストーリーは結末がある、ナラティブは結末がない。
と、自分はそう解釈しました。
ストーリーって誰かが考えたもので起承転結みたいなものがあり、小説とか映画を見せられているような部分のことじゃないですか。
ナラティブは、断片的に事象を見たり聞いたりして、それを受け取って考えて感じて、自分も発信し行動し交流し、そうやって頭の中で感じたこと全てがストーリーになっていくわけです。
だから人それぞれのストーリーがあり、変化していくわけです。
ナラティブって文芸の分野だけではなく、今ではさまざまな分野でもナラティブって概念を取り入れているようで、ビジネスやカウンセリングケア、そしてもちろんゲームの分野でも言われるようになってきたということです。
ナラティブゲームとは何か?
2013年頃ゲーム業界でもナラティブが注目される
冒頭でも言いましたが、7年ぐらい前、某掲示板でゲームの面白さ、ドラクエ1の素晴らしさ、デモンズソウルの素晴らしさ、クエスト制RPGの問題点などを偉そうに語る日々を過ごしておりました。
1、2人は賛同してくれてましたが、ほとんどは自分の意見を全く受け入れられない人がほとんどで、2対100ぐらいで言い争いをしてましたね。
オブリビオンなどのオープンワールドが登場し主流になろうとしている時代に、それを真っ向から否定し、「ドラクエ1こそが本当の自由だ!RPGの完成形だ!」と言っているのだから理解されないのは無理もありません。
言い争いの中で「おまえが言ってることってナラティブなんじゃね?」って教えてくれたのが4Gamerの記事だったと思います。
この記事によると、海外ではナラティブ・サミットが開かれるほど大きな盛り上がりを見せ、日本でも2013年に行われたCEDEC(国内最大のゲーム開発者向けの技術交流イベント)で、ナラティブなゲームについてのセッションが開催されたそうです。
ゼビウスやドルアーガの塔などの制作者で有名な、遠藤雅伸氏も出席していますね。
ナラティブゲームの定義
ナラティブゲームとは要するに、ナラティブを感じられるゲームということになります。ナラティブとは上記で説明したように、体験型、主体的な感覚のゲームということです。
2013年に行われたセッションによると、「自分の体験と認識するゲーム」「人それぞれ思い出ができるゲーム」というように説明されています。
しかし、明確に定義することは難しいとも述べており、「ナラティブは人の頭の中にしかなく、結果からしか問われない」ということです。
自分が頭の中でどう思うか感じるかだから、感じ方は人によって当然違う場合があり、国や文化や環境など、人それぞれのバックグラウンドによっても変わってくるということですね。
ナラティブとされているゲーム
風ノ旅人
ナラティブゲームという言葉が無かっただけで、今考えるとナラティブなのではないかというゲームは当然あります。2013年のセッションでナラティブゲームの例として以下のゲームが紹介されました。
- 風ノ旅ビト
- FTL: Faster Than Light
- 風来のシレン
- ドラゴンクエスト(初期)
- ときめきメモリアル
- ゼビウス
- ひぐらしのなく頃に
- 北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ
- デモンズソウル
- ダークソウル
- ワンダと巨像
FTL、ときメモ、ひぐらし、オホーツク、ワンダ以外はプレイしたことがあります。
風来のシレンのようなゲームはナラティブというのはわかりやすいと思います。1000回やれば1000通りの体験ができ、1つのミスが命とりのなるような印象深い思い出が生まれるゲームですから。
当然、このブログでも評価しているドラクエ1やデモンズソウル、ダークソウルもナラティブですね。
意外なのは、ゼビウスのようなシューティングゲームが入っていることです。他のシューティングゲームと比べてという感じですが、確かにグラフィックも他にあまり見ない感じですし、独特の世界観を感じて妄想力を掻き立てられ、重みを感じないこともない。
これらのナラティブゲームとされるものの共通点は、余計なことをしすぎていないってことがある気がします。
多くを語れば語るほど、ゲームの中の世界とプレイヤーにズレは起こるし、思考の妨げになったりしますから。
ナラティブとされていないゲーム
ファイナルファンタジーXIII
逆にナラティブゲームではない、または弱いという認識のゲームも紹介されています。
- ファイナルファンタジー
- メタルギア・ソリッド
- 街
- シェンムー
- グランド・セフト・オート
- Thomas was alone
この中ではファイナルファンタジーとメタルギア・ソリッドしかやったことありませんが、これらはゲームで映画のような表現を目指している部分があり、主人公が勝手にしゃべり、勝手にストーリーが展開しゲームが進んでいくので、自分の体験と思いづらいのはわかると思います。
そして、オープンすぎるオープンワールもナラティブではないと紹介されていますね。自由に何でもできるからナラティブというわけではなく「プレイヤーはプレイヤーとして好き勝手するのが面白いのであって、その世界の人間にはならない」ということのようです。
このブログではテンプレオープンワールドのようなゲームは、一見自由と見せかけて自由ではないと言ってきましたが、やはりナラティブゲームとしても見られていないということです。
ドラクエ ロトシリーズ に学ぶナラティブ
よく自由なRPG(またはナラティブなゲーム)として紹介されている例で、オープンワールドゲームは自由だ、ドラクエは1本道RPGだと紹介しているのをたまに見かけます。
少なくとも初期ドラクエは1本道RPGではないですし、冒頭でも、過去記事でも言いましたが「ドラクエ1は原点にして頂点、RPGのお手本、完成形」と言っていいぐらいの作品で、ドラクエ1,2,3 ロトシリーズは今で言うナラティブゲームの代表格だと思っています。(できればファミコン版をプレイ推奨、スマホ版は全てをぶち壊す別ゲーの糞ゲー)
ドラクエが何故ナラティブなのか?ナラティブとは何なのか?を解明していきます。
自分の意思で進んだ道は自分の体験になる
小学生の頃ドラクエ1をプレイし、広大な未知の世界を自分の意思でハラハラドキドキの大冒険している感覚でプレイしました。
他の多くのゲームとは明らかに違う何か、竜王を倒しエンディングを見たときには、壮大な物語を体験し成し遂げた感覚。
ドラクエがゲームについて深く考えるようになったキッカケであり、何故そんな感覚になれたのかというのを小学生の時から自分は考えていまして、このブログで何度も言ってきた言葉があります。
たとえ色々な所に行くことができようとも、自分の意思で動いていなければ、ただ歩かされているだけで自由を感じないですよね。当たり前なことです。
自分の意思で進んだ道なら1本道でもいい
ドラクエはたいして行ける道が少なく1本道ゲーだと言う人がいますが、上辺だけしか見えてない人が多すぎます。
前述した、2013年に行われたセッションでは、オープンすぎるオープンワールドは「プレイヤーはプレイヤーとして好き勝手するのが面白いのであって、その世界の人間にはならない」という見解をしているというのにも繋がってくる話しで、このブログでもよくあるテンプレオープンワールドは自由を謳っているが自由じゃないと言ってきました。
何でもできて、無数に用意された選択肢、時には神の視点で難易度まで自由自在で、自由を体験できるとされているオープンワールド。
選択肢は無数だが、用意された選択肢を選ぶだけ、答えを知らされて進むだけの作業だったり、特に意味のないことが色々できてそれは自由なのか面白いのかナラティブなのかと。
選択肢が豊富だろうと、少なかろうと、結局は辿った道をなぞればどちらも1本道です。
ナラティブゲームとして取り上げられている風来のシレンは、ランダム生成で人それぞれ思い出ができやすくたしかに自分の体験と思えるゲームです。
これもランダムで進んだとしても、プレイヤーにとっては意図的なのかランダムだったのかは知らなくてもいいことで、結局進んだ道をなぞれば1本道です。
選択肢の多さや、ランダム生成かはあくまで1つの手段にすぎず、自分の意思で進んだ道なのかが重要であり、選択肢が多いから自由だナラティブだ、ランダム生成だから無限の選択肢だ自由だナラティブだとかにはならないということです。
自分の意思という感覚にさせるには
主人公=自分自身と思わせる
主人公=自分自身であり、自分(プレイヤー)はこの世界の主人公なわけだから自分が勝手にしゃべることはありません。
主人公がしゃべるということは、自分の意思と反しているわけで、プレイヤーとのズレが生じやすくなります。
もちろん主人公が勝手に動いてお話がどんどん進んでしまうこともないですね。ドラクエはそのあたりは徹底されています。
具体的な指示をしていない
自分の意思で動いている感覚にさせる大きな要素は、
最初に竜王討伐という明確な大きな目標を与えられます。最初は強制ですが、ドラクエをプレイする時点で誰もがクリアを目指すわけだから、強制と言う感覚はないと思います。
目的を早く明確にさせたほうが世界に意味が生まれて、竜王討伐するにはどうしたらいいのか?という考え、自分の強い意思が生まれやすくなります。
(世界に意味とは、例えば強い武器のほうが価値があるという意味)
あとは、世界各地に散らばった断片的な情報から推測したり、勘をたよりに、糸口を見つけます。
けっして「ガライの墓へ行って銀の竪琴を取ってこい!」とか「銀の竪琴をじじいに渡せば雨雲の杖が貰えるよ!」とか「滅ぼされた街ドムドーラにロトのよろいが隠されてる!」とか言わない。
例えば「ロトのよろい」のありかは、世界各地に散らばった断片的な情報を聞くことができます。
- ロトのよろいはゆきのふという男の手に渡った
- ゆきのふは自分の店の裏の木に何かを埋めた
- ゆきのふはドムドーラで武器屋を営んでいて店の場所は街の東の方
「ロトのよろいはゆきのふという男の手に渡った」だけでは探しようがないけど、ロトのよろいという凄そうなよろいがあることはわかります。
「ゆきのふは自分の店の裏庭に何かを埋めた」だけでは何を埋めたかわからないけど最初の情報を聞いたならロトのよろいを埋めたかもと思います。
「ゆきのふはドムドーラで武器屋を営んでいて店の場所は街の東の方」だけでは何気ない情報だが、全部の情報を聞いたなら滅ぼされた街ドムドーラにロトのよろいがあるかもと思えます。
(たしか最後の情報は容易には行けないメルキドのわかりずらい場所だったと思います)
断片的に散らばった何気ない情報でも、他の情報と合わせることで何かあるかもと思えてくるし、プレイヤー自身に考えさせて、気づきで行動することになります。
命令や答えを知らされて動いてるのとは全然違う自分の意思で決断している感覚になるわけです。
フラグ管理していない
そして、これらの情報を必ずしも聞く必要はなく、何も気づかなくても勘や偶然で「ロトのよろい」を入手することも可能であり、それもまた人それぞれのリアルな体験になります。
情報はあくまで情報にすぎず、聞かなければ入手できないなんていう理不尽な縛りはありません。
昨今のRPG、オープンワールドなどは、会話などをしてフラグを立ててからじゃないとアイテムを入手できなかったりします。
ゲームによっては「ロトのよろいはゆきのふという男の手に渡った」という情報を聞いたとしたら、ピコーンとその時点でクエスト発生の通知が鳴り、100%何かあるということを暴露されてしまうでしょう。
そして、「メルキドにゆきのふの子孫がいるらしいから行ってみろ」→「メルキドに行って話を聞く」→「ドムドーラ」。
こういう決まったルートを強制的に歩かされるパターンになるでしょうね。ゲームによっては、マップに目印も付けてご丁寧に誘導してくれると思います。
キーアイテムで導く
あと、フラグで管理するのではなく、キーアイテムの有り無しで行ける範囲が決まる方式は、プレイヤーは、何故行けないのか?という理由がわかりやすく、そして自分の意思を損なわず誘導できやすいと思いますね。
「鍵がかかった扉があればカギが必要だと思いカギを探したくなる」「橋が無くて渡れないから橋をかけることができる虹のしずくを探したい」など、強引な誘導やリスト化せずとも、何をしたらいいのかが感覚的にわかり、混乱しにくい思います。
「ドラクエ2のキーアイテムである紋章集め」「ドラクエ3のキーアイテムであるオーブ集め」も、何をすべきかがわかりやすいですね。広大な世界を自分の意思で探索、冒険している感覚を失わせず自然とゴールへ近づきやすいです。(厳密に言えばフラグで管理している部分もあるとは思います)
多くを語らず想像を裏切らせない
上記で主人公=自分自身と思わせると言いましたが、そう思わせる要素がもう1つあります。
主人公自身に関する情報が最低限しかわかりません。
ドラクエ1はゲームをはじめると、王様からこんなことを言われます。
「おお〇〇!ゆうしゃロトの ちをひくものよ!そなたのくるのをまっておったぞ。」
「その むかし ゆうしゃロトが カミから ひかりのたまをさずかりまものをふうじこめたという。」
「しかし いずこともなくあらわれたあくまのけしん りゅうおうが そのたまを やみにとざしたのじゃ。」
「このちに ふたたびへいわをっ!」
「ゆうしゃ 〇〇 よ!りゅうおうをたおし そのてから ひかりのたまをとりもどしてくれ!」
主人公自身に関する情報は、勇者ロトの血を引く子孫という設定と、竜王を倒して光の玉を奪い返すという使命を受けたぐらいなものです。
あくまで、魔物を光の玉で封じ込めたのは先祖である勇者ロトであり、主人公ではありません。
これがもし過去に主人公がやった出来事として語られたなら、プレイヤーは自分が過去にやったことを今知らされていることになり、自分とは思えない感覚に無意識にでもなってしまう可能性があります。
過去にそういうことをした設定を受け入れて成りきれればいいですが、あえて何も知らせずプレイヤーの想像に任せれば、プレイヤーの成りたいように成れるわけで想像を裏切られることがないのです。
極端な話し、自分は勇者だと思っていたのに、過去に極悪非道なことをした主人公として語られたなら、想像してた自分と異なり、想像を大きく裏切られれば、受け入れられなくなって自分自身とはなかなか思えなくなると思います。
ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドは、さらに発展させて、主人公や世界の過去の出来事を知らされるが、主人公は記憶喪失ということも知らされます。
主人公が過去にした出来事を今自分自身(プレイヤー)が知っても、記憶を失っているのだから今知ったことに矛盾がないわけで、想像より違う自分でも、記憶喪失で別人格だからと受け入れられるわけです。
余白を作り想像力で埋めて無限の広がりある世界に
そして、多くを語らず想像する余地を残すってのは、主人公に関することだけではなく、その世界の全てにも言えるわけで、言葉や映像で世界の全てを説明なんて出来るわけなく、説明すればするほど小さく感じてしまう場合があると思うんですよ。
抽象的なことを言いますが、余白を作ってあげてプレイヤーの想像力で埋めることで無限の広がりや深みを持たせて、その世界に入り込んだような感覚になれる気がしますね。
それはゲームに限らず、マンガや小説、映画など色んなことに通じることだと思っています。
3時代にわたる壮大な物語
ご存知のようにドラクエ ロトシリーズは、時系列的にはドラクエ3→100年後→ドラクエ1→100年後→ドラクエ2の順番になっており、それぞれ主人公が違いますが血が繋がった子孫たちがおりなす、時代をまたがった壮大な物語です。
ドラクエ1で100年前にいた偉大な勇者ロトを想像し背負ってプレイするわけです。
ドラクエ2で魔王ではなくなった竜王のひ孫や変化したアレフガルドを見て100年の時の流れを感じ想像しました。
ドラクエ3の最後には主人公は勇者ロトであることが明かされ、自分自身が伝説の存在であったと知らされるわけです。
もしはじめから、「のちに伝説となる勇者ロトですよ」とわかってしてプレイしたならば、それは厳密にいえば勇者ロトになりきろうとしている自分ともいえます。
物語のロトは自分が伝説になるなんて思うわけないのだから、プレイヤーもロトと知らないでプレイしてあとから知らされたほうが、なりきろうとする必要もなく、よりリアルなロトの物語を自分自身の体験としてプレイできたんだとも言えますね。
アレフガルドに降り立った時の衝撃、ロトだったと知った時の衝撃、壮大な伏線回収は、より世界に説得力が増して200年の壮大な物語を体験し終えた感覚でした。
これはもうまぎれもないナラティブ体験だったと本能でわかります。
ナラティブはゲームの面白さの鍵となるか?
ナラティブが「自分の体験」と思えることとするならば、ゲームというのは別世界に入って別世界の主人公になって動かせて、反応が返ってきて、変化してしまえるわけで、別世界の自分という感覚になりやすい最高のメディアなんじゃないかと思えますね。
そして、RPGはそもそも自分が物語の主人公になってその世界を自由に冒険するという側面が強いゲームであり、ナラティブでなければRPGの意味がないとさえ言えるかと。
突き詰めると、究極のナラティブ体験とは、究極のナラティブゲームを作る、要するにもう1つの現実を作ればいいわけです。
じゃー現実と遜色のない物理法則や広大な空間、滅茶苦茶リアルな草木や山や川、数々の建造物、何億種類もの生物など、もう1つの現実レベルのリアルなバーチャル空間作って、VRゴーグルみたいなのつけて入れればいいのかと言ったら違います。
その世界で、車をぶっ壊し、人をぶん殴り、建物を破壊したとします。現実レベルにドキドキしますか?感情が揺さぶられますか?たぶんしないでしょう。
現実の世界は一見、自由に何でもできそうで全然自由にできないですよね。やろうと思えばできるけどなかなかできません。もし人をぶん殴ったり車をぶっ壊しでもしたらとんでもないことになります。
現実の世界にはルールがあり、モラルや秩序、お金や名誉、寿命、死など色々なものを背負い、意思を持って生きているわけで、死んだら終わりの緊張感ある、ある意味、究極のゲームみたいな世界があなたの今いる現実の世界です。
本当に現実レベルのリアルなバーチャル空間、リアルな体験を作りたいならば、上っ面じゃなくて、その世界に「意味」を吹き込まなければ成立しません。
世界に意味を吹き込んで、感情が揺さぶられて、緊張感あって、ドキドキして、意思が芽生えるような世界(ゲーム)を作るということです。
「自由とは自分の意思で動くこと」であり、「ゲームとは自分の意思を作ること」ではないかと他記事で言ったりしました。「意思」というのがゲームの核であり「面白さ」なのではないかと。
自分が望んで自分の意思で進んでいるってことは必ず面白いはずですから。
まとめ
ということで、ゲームの面白さとは何ぞや長文シリーズ第二弾的なものをお届けしました。
自分の意思で進むこと(考えることでもいい)は自分の体験(ナラティブ)になり、それは結局面白いってこと。
ようは面白いゲームを作ることはナラティブゲームを作ることとなる。
少々強引かもしれませんが、現時点で自分はそんなようなことを考えております。
ナラティブ、ナラティブゲームという言葉の意味を正確に説明しているかはわかりませんが、言葉自体の意味は正直どうでもいいのです。
自分が考えることがナラティブという考えと共通する部分があると思っていますが、たとえナラティブだろうがナラティブじゃなかろうが、これが現時点での自分が考えるゲームの面白さとは何か?です。
賛同なり反論なりしていただいて、このブログのテーマでもあります「ゲームについて真剣に考える」きっかけになれたらと思います。
以前書いた「最近のゲームがつまらない理由→不自由と自由がゲームをつまらなくする」も、ゲームについての渾身の思いをぶちまけておりますので、合わせて読んでいただくとよりわかりやすくなると思います。
追記:さらに続編的な記事を書きました!もう1つの世界を作りたいと思っていた自分だからこその視点でメタバースをぶった斬ります!
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